パソコンの画面に映る綺麗な景色

 会社のパソコンを立ち上げると、パスワードを打ち込む前の画面で綺麗な景色の写真が画面に映る。数日ごとに変わるそれは夜空に打ち上がる色鮮やかな花火や青空の下誰もいない白い砂浜に水色の波が打ち寄せる写真だったりする。匿名の、季節ごとの美しい景色の写真は誰が見ても「綺麗な写真」と思うだろう。

 しかし、僕らはパソコンの向こう側の人たちが用意してくれた「素晴らしい」写真にそこまで感動することはない。現実逃避の対象として「いいなぁ」「綺麗だなぁ」「行ってみたいなぁ」と思うことはあるけれど、その写真に感動しているというのとはちょっと違う気がする。

 

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 写真ではない。だから全然違う話になってしまうかもしれない。それでも話を続けさせてもらうと、僕は夕焼けが好きだ。会社から走って帰っているときに荒川にかかる橋から見えるスケールの大きな夕焼けやカフェの広いガラス窓から見えるソファに腰掛けながら眺められる気の利いた街の夕焼けが好きだ。夕焼けは晴れた日の夕方には必ず現れるし、誰かとわざわざ「あの夕焼けは綺麗だったね」と話になるほど珍しいものではない。それでも、夕焼けに出会うと、僕は夕焼けが僕のなんでもない一日の苦労を労い、祝福してくれているように感じ、感動する。

 

 誰もが憧れるリゾート地や季節ごとにしか見られない光景を写した「綺麗な写真」よりも、毎日のように現れる夕焼けや何日も晴れの日が続いた後の雨降りに僕らが心を動かされるのは、それが自分にとって「個人的な物語」として感じられるからではないだろうか。

 美しさというのは誰が見ても口を揃えて評価できるようなものに宿るのではなく、誰もが当たり前のように抱える人生という個人的な物語の先に生まれるものなのだと思う。

 

 

 おしまい